普段の仕事で常に意識すること、あるいは頭を悩ますことー覆い隠すという行為について。
覆い隠すものー天井板や床板や壁板などの化粧板、時に基礎外部の仕上げモルタル、ダボ。覆い隠されるものー配線、配管、断熱材、場合によって梁や桁や柱。打ちっぱなしのコンクリート、木材の表面から打った釘やビス。
主はあくまでも覆い隠されるものであり、覆い隠すものは従である。つくる側あるいは住む側の便宜上の理由からやむを得ず覆い隠すことを選択しているに過ぎず、そこには、汚いものは隠したい、あるいは実際よりも美しく見せたいという価値観が強く存在している。卑近な例では、合板に施した木目調のフローリング、ベニヤに突き板を薄く貼った化粧ベニヤあるいは化粧天井、漆喰調あるいはコンクリート調の壁紙、圧縮した紙に木目調のプリントを施した窓枠材あるいは既製品のドア、アルミでできた木目調の玄関ドア、プラスチックでできた竹垣、木目調の車の内装、など、枚挙にいとまがない。
しかし、あくまでもそれらは合板であり、ベニヤであり、ビニールクロスであり、圧縮した紙くずであり、アルミであり、プラスチックであり、樹脂であり、ほんものの木や土やコンクリートではありえない。覆い隠すにあたっては、そのことをしつこいまでに問い直し、自覚することが必要だと思う。いったん覆い隠されたものは日常というの流れの中で、いずれ頭の片隅に押しやられ、見えなくなり、ついには意識にすらのぼらなくなる危険性をつねにはらんでいる。
いや、まて。主と従は既に逆転してしまっているのではないか?
主となる血、肉、骨はもはや食い尽くされているが、表面の皮一枚でかろうじて外面だけが保たれている状態ではないのか?我々は本当はもう死んでしまっているのではないのか?そのことに気づいていないだけなのではないのか?
圧倒的な力を持つイスラエルがパレスチナの無辜の子どもたちの上に爆弾を降り注いでも、それに抗議する大きな世論はわきあがらない。総生産量の何倍ものカネがうごめく虚構が明らかになりつつある金融市場ーさんざんあぶく銭を手に入れた経営者たちはこの恐慌で身銭は切らず、従業員のクビを切る。年末にあれだけ騒がれた派遣労働者の問題ー多くの人々の生死にかかわる問題にも関わらず、あまり紙面にのぼらなくなって久しい。新聞社説は空々しく自己弁護的な論説を繰り返すだけ。テレビは相も変わらずうわべだけの笑いと涙と共感と感動を垂れ流している。一体、今どこに本当の生の営みがあるというのだろう?
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