とある巡り合わせから、とある映画のためのオープン(野外)セット設営の仕事に関わった。請け負った仕事は、いわゆる大道具(美術ともいう)と呼ぶセットそのもの制作ではなく、セットを設置する仮基礎の制作や土地の造成、足場など現地調達品の手配あれこれ、いわば黒子の黒子役で、決してキャストとして出演依頼をいただいた訳ではない・・・。主なるセットは、四間×四間ほどの古い田舎小屋。丸太梁もあり、壁は土壁に見せる。ほかに、カラオケスナックの実物大はりぼて、小さなかわいい豚小屋、などなど・・・。
ロケ地の決定からセットの完成までは一ヶ月足らずだった。当初、日程を聞いたとき、てっきり翌月の話だと思ったぐらいだ。しかも、東京のスタヂオにもう一つ同じ物を造る。うぅん、我々もこの勢いで仕事ができれば儲かって仕方がないな、と思った。
小屋の屋根をでこぼこに葺いてくださいと、紹介した地元の屋根屋さんたちは頼まれ、目を白黒させていた。そこに塗装などでエイジング(古色をかぶせる)を施し、古く見せるということだ。それならば、あらかじめ棟木や母屋を上げ下げしてでこぼこを調整すればと私が提案すると、大道具はあくまで足し算の世界だとの答え。ベースとなる造形に部材や色を重ねていくことで、表したいイメージに近づけていくという。
いかにウソをつくのか、美術監督はそう説明してくれた。照明をあて、レンズを通したときにどう見えるのかが大事なことであり、そのウソは、撮影期間の二ヶ月も保てば十分だ。私たち大工(“本式の大工さん”と大道具の方々からは呼ばれた)のように、駆体や下地を突き詰めて考えていく必要は無い。確かに表面を足し算していく技術は、仮想の世界を短時間で造る手段として合理的に感じた。考えてみれば、大道具には舞台美術などから始まる長い歴史の裏付けがあるはずだ。特に今回の小屋のセットは、近頃としては本格的な物であったという。最近の大道具は、ウソのつきかたも薄っぺらな物が多いという。美術監督としては、若手の大道具たちがウソの技術を継承してゆく機会をつくらねば、という思いが有ったようだ。
良質な映画(ウソ)は人々の想像力を豊かに喚起するだろう。私たち大工が関わる仕事でも、店舗は人々に夢を与える場という意味において大道具的なのかもしれない。実際、大道具的な技術でも施工される。しかし一方で、人々の想像力に蓋をするようなウソも大量に造られ続けている。ひたすら場当たり的な足し算(ウソ)でうわべを覆うことにエネルギーが費やされ。つまり、石油で固められた環境共生住宅でありメディアの作り出す穴埋め的自己弁護エコキャンペーン(結局新たな消費の宣伝ですね)。人々は、自分自身の足でホントの地面の感触を確かめることを忘れる。大道具美術のウソは、ホントを伝えるために駆使されているのだが。
これ以上は、以前にこの欄で久良氏が、「覆い隠すものと覆い隠されるもの」で書いたこととかぶりそうなので、そちらも読んで下さい。でも最後に。エコカー購入には助成金がついて、我が家の十四年目、走行距離二十五万キロ超の車の税金が高くなっているのはなぜ? 姨捨山に早く捨てて下さいという行政指導ですか?
コメントを書き込む