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大工塾ネットワーク協同組合 杢人の会

47:二つのさしがね
2017.09.06

私が持っている、二つのさしがねについてお話ししたいと思います。
一つは私が仕事で愛用しているさしがねです。新潟の梅田製作所のものです。
さしがねの歴史は古く、その昔に聖徳太子が日本にもたらしたとされています。その後幾多の変遷を経て、現在の尺度に落ち着いています。私はもっぱら尺寸を使います。日本の木造になじむのは、外来のセンチ・ミリではなく、やはり在来の尺寸だと思います。
『男はつらいよ』にこういうシーンがありました。とある縁日で、寅さんが尺寸のさしがねを密売しているんです。そこへ取り締まりに自転車に乗って駆けつけてくるのが、永六輔さん扮する警察官・・・
戦後の度量衡法では、長さの単位はメートル法に限定され、尺寸の目盛りの入ったさしがねを製造、販売、使用するのは違法とされました。
さしがねを単なる長さの測量や、直角を見るのだけに使用するのならば、センチやミリで事足りるのかもしれません。一方さしがねを規矩(きく)的に使うのならば、尺寸でないとどうにも使い勝手が悪い、というのが大方の大工の意見だと思います。
規矩的に使う、というのは少し説明が必要かもしれません。
さしがねには表目といって、通常の寸法が目盛ってあります。くるりとひっくり返した裏面には、裏目といって表目の1.4142倍、つまり√2倍の長さの目盛りがあります。
木造住宅の寄棟造や入母屋造の屋根には、隅部に45度の角度で入れる隅木という部材があります。この隅木を始めとして、屋根に関連する部材に墨付けをする場合には、表目と裏目の組み合わせを使えば、いとも簡単に寸法を割り出して墨付け出来るようになっています。
さしがねは、直角三角形の相似を利用した非常に巧妙な計算機でもあるわけです。
『大工とスズメは隅で鳴く』とも言われる由縁です。
このさしがねが生まれたのは中国ですが、飛鳥時代には聖徳太子によって日本に導入され、多くの寺院の建立に使用されたのを皮切りに、木造建築の歴史のあらゆる場面で重要な役割を果たしてきました。
江戸時代には和算の発達にともない、さしがねを利用した規矩術は空前の発達を遂げます。
この万能とも言えるさしがねの昭和に入ってからの存亡の危機を救ったのは、多くの職人たちの声と、それを同じく憂えた永六輔さんや渥美清さんたちだったのです。寅さんの縁日での一シーンは見事な風刺であったのです。
試しに尺寸の目盛りのあるさしがねやスケールをお持ちの方は印されている単位を見てみてください。1/33mと印されていますから。そういう表記でもって、現在は法律的に尺寸法(長さのことを寸法っていうじゃないですか!)は黙認されているんです。何か、変な気がしますね。
私はややもすると、さしがねを材木の割れ目の掃除や、天井裏で手が届かずに物を引き寄せるのに使ったり、孫の手代わりに背中を掻くのにも使ったり、飛んできたハチを追い払うのにも使ったり・・・これ以上書くのはやめておきます。さしがねは本当は神棚や仏壇にお供えしておくべき程の価値のあるものなんです。
さて、もう一つのさしがねは、私が生まれてこのかた大事に使い続けて来たものです。いつも私の心の中にしまってあります。
これには心目という目盛りが刻まれています。この心目は測る対象によって、私が自由に目盛りをコロコロ替えることができます。ですから正確に測ることなんて本当はできないんです。しかし私はこのことを気づかずして、自分の心目が絶対に正しいと思い込んでこのさしがねを使ってきました。今現在も仕事のみならず毎日のあらゆる場面で、このさしがねを使っています。
私は毎日得意になって目の前に現れるすべてのものに、このさしがねを当てて判断を下します。
食べ物、お天気、気温、景色、物音、身の回りの動植物、近所のこと、社会のこと・・・
いやもう、目の前に現れることのみならず、過去に起こったことや未来のことでさえも次から次へとさしがねを当てて判断していきます。
特に仕事と人間を判断する上で細かく使っています。何を判断するのか?それは自分にとって都合が良いのか、都合が悪いのか、得するのか、損するのか、です。おまけに人と人、仕事と仕事を比較しては、善い人(仕事)と悪い人(仕事)、価値ある人(仕事)と価値のない人(仕事)などなど、その調子で全てのことに判断を下すのです。
これは非常に危険なことです。何しろ自分の価値観でもって、すべての人物の価値を断じ、もし、否との答えを出したとしたら、それに対する価値を一切認めずに否定してしまうんです。これほど傲慢で、独善的なことがあるでしょうか。
それは結局、否定することと同時に、自分の思い通りにならないことの責任を転嫁することにもつながりかねない、おそろしいさしがねの使い方でもあります。
自分の持つさしがねの目盛りと、その使い方は本当に正しいのだろうかという疑問を、最近の私は遅ればせながら感じています。
私は人生の途上において、自分なりの価値観を早く持つべく努力してきました。あらゆる人、仕事、物事を見分ける力を身に付けたかったのです。しかし、その価値観に自信をつけるのと同時に、人や物事を見下す傲慢さも知らず知らずのうちに身に付けてしまったのではないかと思うのです。
私の価値観、というのは私の幸福感と同義ともいえるでしょう。ひたすらに幸福を求めて一所懸命に生きてきたのは紛れも無い事実です。しかしその一方で自分の価値観にそぐわないもの、自分の幸福を邪魔するものと判断を下した場合には、容赦なく否定する態度をとって来ました。時には相手を傷つける言動をとることもしばしばでした。
果たして、そんなことで本当の幸福は得られるものなのでしょうか?人や物事を、ただ比較することによってのみ価値を見出すことができないのならば、あまりに悲しいことだと思うのです。
私はこの心目の目盛られたさしがねを一日も早く捨て去りたいと思っています。同時にそれを捨て去るのが、なかなかに難しい自分をも感じています。
しかし、このさしがねを私の心から捨て去り、感謝の気持ちや共感をもって周囲の人びとや仕事、物事に向かい合うことができるようになった時、初めて私の幸福な人生や仕事が展開して来る気がしています。
私の修行はまだまだ続いています。

二つのさしがね

投稿者:兼定裕嗣

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