お問い合わせ

大工塾ネットワーク協同組合 杢人の会

04:温故知新
2017.08.29

山また山。そのまた向こうの山の奥。 郡上八幡に新宮(しんぐう)という平家の落ち武者伝説の残る集落があります。
新宮の手前には、細い谷沿いに「乞食もどり」と呼ばれる場所があり、物乞いに向かう乞食でさえこれ以上奥には人家の気配がないと引き返していったというのですから、どれほどのところかは御察しがつくでしょう。

その新宮に「出登り造り」というこの地方独特の古民家を訪ねていった時のこと。
ある家の当主である老人が、まるで昨日のことでも話すような口ぶりで語ってくれました。
「わしが子供のころにおじいさんから聞かされたんだが、『わしが子供のころにおじいさんから聞かされたんだが、 おじいさんが子供のころ・・・(わけがわからなくなってきましたが、どうやら江戸時代の話みたいです)・・・新宮で石場建ての家が初めて建った。
なにしろ新宮はおろか、このあたりでも石の上に建てる家は初めてのことで、遠くからもたくさんの人がわざわざ見に来たよ。』・・・。」

この老人のお宅は幕末の慶応元年に建てられています。
およそ140年前ですが、初めて建った石場建ての家(写真のチョウナはつりの大黒柱はこの家のものです)はさらに古いといいますから、天保などの180年前くらいにさかのぼるかもしれません。
では、それ以前の民家はどうやって建てたのでしょうか?
奈良時代の頃よりずっと、民家は掘っ立て柱で建てていたのです。

もちろん飛鳥時代には既に中国伝来の寺院建築は、礎石の上に柱を建てるものでしたが、この革新的な技法が美濃の山奥の一般の民家にまでもたらされるまでに、一千年以上の月日が経っています。
それでも周辺の住民の度肝を抜いたというのです。その驚きは、例えば我が家の94歳になるおばあちゃんが東京で超高層ビル群を見て度肝を抜かれているのと同じか、あるいはそれ以上のものであったかもしれません。
およそ日本の国宝、重要文化財といった何百年もの風霜に耐えてきた木造建築は、柱の建て方に限って見てみると、ほぼ100%が石の上に建てられています。
ですからこの技法がいかに優れたものであるかは改めて説明する必要はないと思いますが、コンクリートの出現によって、このあたりの民家の基礎も昭和30年代を最後に、もれなく姿を変えてしまうことになりました。
美濃での民家の石場建ての期間はわずか百年ほどであったことになります。

今、私に手間と暇を限りなく与えて下さる神様のような人が現れたとしましょう。
そしてあなたの理想の家造りをして下さいと依頼されたとすれば、私は迷わずに柱を石の上に建てるでしょう。
しかし、現実に照らし合わせて考えると私はやっぱりコンクリートの基礎を選ぶのです。
決して逃げの姿勢ではありませんよ。

大工塾では構造力学と合わせてコンクリート基礎の考え方や仕様も勉強します。
単に伝統に固執して、新しい技法を否定するだけでは現代やこれから未来の木造建築はすたれてしまうでしょう。
私が好きな言葉は「温故知新」。
古き良きものも十分に取り入れつつ、新しい感覚も常に磨いていきたいと思っています。

投稿者:兼定裕嗣

コメントを書き込む

入力エリアすべてが必須項目です。メールアドレスが公開されることはありません。

内容をご確認の上、送信してください。

PAGE TOP

PAGE TOP